令和6年(2024年)12月8日(日)、当会の活動全般で大変お世話になっている『鎌倉市中央図書館 近代史資料収集室 平田 恵美 先生』をお招きし、『鎌倉・太平洋戦争の痕跡をたずねて』について、ご講演いただきました。
● 活動の背景と目的
鎌倉での太平洋戦争の痕跡をたずねる活動は、鎌倉市中央図書館 近代史資料収集室とCPCの会(鎌倉の今昔探索の会:C=community P=photo C=contribution)が共同で、平成10年秋に開始。空襲被害が少なかった鎌倉では市民による戦争記録の取り組みが遅れていたことから、地元に密着した記録を残すことを目的とした。
● 調査の内容と成果、今後の課題
初期の調査項目は、『米軍上陸に備えた陣地構築の痕跡』と『鎌倉市内の戦争慰霊碑』の2点。慰霊碑の調査は平成14年10月に完了し、図書館で閲覧可能な冊子にまとめた。陣地構築の調査についても、CPCの会と地元住民の協力体制により、陣地構築関連31回(約50ヶ所)、軍事施設関連8回、体験談お伺い12回を数え、冊子にまとまった。一方、鎌倉市内全域を歩くことを目標にしていたが、情報のあるものから順番に手探りで行動したために手薄となった部分が今後の課題として残った。
● 地形と陣地の特徴
鎌倉の谷戸地形を活かし、山中の至る所に穴が掘られていた。海に向けた銃眼や砲台としては、名越では今も入口が残る一方、小坪・材木座・名越・佐助・長谷・稲村ガ崎などの地域では、塞がれて痕跡がわずかに残るのみ。また、内陸部の谷戸の奥にもたくさんの穴が掘られ、津西・御所ヶ谷・笛田夫婦池周辺・関谷インター付近・玉縄城周辺・北鎌倉駅付近・岩瀬砂押橋周辺などには、東京へ向かって進行する米軍迎撃を想定した陣地が作られた。更には、武器弾薬の備蓄倉庫としての穴、横須賀海艦政本部が疎開事務所に使った大規模な穴、連絡通路としての穴も多数あったようだ。
● 陣地跡の現状と記録の困難
戦後の時の流れの中で宅地造成が進み、鎌倉の山中に掘られた陣地跡は多くが失われたが、谷奥や人家の裏には風化した痕跡が今も残っている。記録の全容把握は困難で、当時の記憶を頼りに調査を進めるしか方法がない。実際に穴を掘った、かつての兵隊の方々が遠方から訪ねて来られ、現地を案内してくれたが、風景の変化に記憶が追いつかず、戸惑う場面もあった。
● 軍事施設の調査から得た貴重な体験談
富士飛行機(山崎)、横須賀海軍工廠・深沢分工場、玉縄・植木の捕虜収容所などの跡地を訪問し、関係者の証言や資料をもとに記録をまとめた。調査の過程で、子供時代の記憶や勤労動員、進駐軍捕虜との交流などの体験談も自然に集まってきた。中には、十二所地区の水田に落ちてきた焼夷弾を一本一本抜き出して運んだなど、鎌倉では貴重な話もあった。しかし、体験談はまだ取りかかったばかりで、女性達の様子などもっと生活に根ざした話を集めていかなければならない。
● 歴史を未来へつなぐ
平成15年には、鎌倉駅地下道ギャラリーで調査の中間報告としての展示を行い、大きな反響を呼んだ。新聞報道や教育現場での活用もあり、歴史を伝える意義が再認識された。CPCの会の方々の熱意と地元の協力に支えられ、活動をここまで継続できたことに心から感謝したい。
玉縄・植木地区探索:平成11年(1999年)12月27日
● 小泉園付近
・小泉家は戦時中、地域部隊の首脳部宿舎になった。
・裏山には洗馬ヶ谷へ通じる古いトンネルがあり、兵士たちは穴掘りに従事。
● 平井園の奥(桐ヶ谷戸)
・小泉家裏山から平井園へ通じる穴が存在。
・清泉女学院の西北に位置する谷戸。
● 海軍壕跡と長尾城跡
・海軍が掘った南北縦長の壕(約700m)が、モノレール沿いに存在。
・長尾城跡は開発を免れ、保存状態良好。
● 大船観音の山裾
・長尾台町に複数の壕入口。内部は複数の部屋に通じる。
● 細谷邸裏山
・戦時中に掘られた壕が複数。洗馬谷戸へ通じるものもあった。
● 関谷インター近くの銃眼
・山腹に銃眼があり、敵の横浜方面進行に備えたものと推定。
● 城廻配水池・清兵衛山跡
・高台から江ノ島が見える。旧石井邸は現在幼稚園になっている。
第2回 玉縄・植木地区探索
● 七曲のマンション付近
・陸軍が掘った壕の入口を確認。玉縄城へ通じる道沿い。
・マンション裏山壕の出口部分は現在壁で覆われている。
● 小坂邸裏山
・壕内部は幅1m・高さ2mほど。乾燥していて歩きやすい。
・奥行きは最大100m。暖かい空気が漂う。
第3回 玉縄・岡本地区探索
● 岡本2丁目、神明神社付近の壕
・横須賀海軍艦政本部事務所の一部が移転して使用。
・壕は蒲鉾型で幅3〜4m、奥行き53m。内部は乾燥。
・ハクビシンが住み着いていた痕跡あり。
● 大船観音の山裾(玉縄2丁目)
・稲垣氏宅前の壕は、現在では塞がれている。
・昼休みに事務員が蒸し暑い壕から出てきたという証言あり。
鎌倉は米軍による攻撃・破壊を逃れたため、戦争とは無縁の土地かと勘違いしてしまいそうだが、実際は、その土地柄や地形を活かした戦争の準備を行なっていたことが良く分かった。特に、当会のお膝元である玉縄・植木・岡本地区だけでもこれほどの戦争遺跡が残っているとは思いもよらなかった。この調査活動は、鎌倉に残る太平洋戦争の痕跡を市民の手で記録しようとする地道で意義深い取り組みであり、平田先生やCPCの会のメンバーの熱意と実行力に心から敬意を表したいと思う。
平田先生とCPCの会でまとめた調査冊子は、鎌倉市図書館で閲覧できる他、同館のホームページでも見ることができるとのこと。是非ご覧ください。
※鎌倉市図書館『鎌倉・太平洋戦争の痕跡』
いつも丁寧にご説明くださる平田先生