玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

令和8年(2026年)1月公開講座『鎌倉扇ガ谷の今昔』のレポートを掲載

 令和8年(2026年)1月12日(月曜祝日)、『当会世話人である 槙 卓(まき たかし)氏』による『鎌倉扇ガ谷の今昔』と題した講演を行いました。

ポイント

はじめに
 現在の住まいは、母方の祖父が「関東にも家を持ちたい」と考えたことに始まる。祖父は横浜正金銀行に勤めており、退職後に鎌倉へ移住した友人から隣家が売りに出ていると聞き、現在の家を別荘として購入した。その後、祖母・母・私へと受け継がれ、今日に至っている。

扇ガ谷という地名
 鎌倉は広く知られているところだが、その一町名である『扇ガ谷』を知る人は多くない。実際には鎌倉駅西口からすぐ、紀ノ国屋付近から始まる谷戸である。元は『亀谷(かめがやつ)』と呼ばれたが、室町期に関東管領・上杉定正がこの地に住み『扇谷殿』と称されたことから現在の地名が広まった。谷戸の形状が扇状であることや『扇の井』に由来する説もある。

正宗工房と古我邸
 扇ガ谷入口には鎌倉時代から続く刀鍛冶・正宗の工房がある。明治期に武家が廃業すると、正宗家は広い土地を所有していたと伝わる。その一部を三菱財閥が買い取り、現在の『古我邸』として残っている。古我邸は三菱の大番頭が建てた洋館で、戦前には浜口雄幸・近衛文麿らも別荘として利用した。戦後は古我氏(日本初のF1レーサー)が所有し、現在はレストラン・結婚式場となっている。

鎌倉歴史文化交流館
 古我邸奥には、旺文社社長・赤尾文雄の別荘跡を活用した『鎌倉歴史文化交流館』がある。敷地は約5千坪、鉄筋の大規模建築で、赤尾氏の財団が維持していたが、後に鎌倉市へ譲渡された。現在は鎌倉の歴史を展示する文化施設として活用されている。

御成と皇室ゆかりの地
 明治以降、鎌倉は温暖な気候から別荘地として発展し、サナトリウムも多く建てられた。大正期には貞明皇后の別荘が鎌倉駅西口に建てられ、現在の御成小学校となっている。『御成』の地名は皇后の行幸に由来し、鎌倉で最も新しい町名である。近くにはローンテニス倶楽部があり、若き頃の上皇・上皇后夫妻がプレーしたことでも知られる。また、正宗工房の角にはピストン堀口のボクシングジムがあり、戦前の英雄として人気を博した。

巽神社・寿福寺と周辺の史跡
 扇ガ谷を進むと巽神社があり、古い歴史を持つが現在は小規模で無人である。続く八坂神社と隣接する寿福寺は源氏ゆかりの寺で、参道奥の本堂は年数日のみ公開される。寿福寺の墓地には大佛次郎、高浜虚子の墓があり、奥には北条政子・源実朝の墓とされる碑があるが、実際はモニュメントとされる。寿福寺周辺は源義家の屋敷跡でもあり、頼朝が幕府を置く候補地でもあった。

英勝寺と太田道灌
 寿福寺の近くには、家康側室・お勝の方が開いた鎌倉唯一の尼寺・英勝寺がある。お勝の方に育てられた水戸光圀は、江戸城登城の際に遠回りして訪ねたという。裏山には太田道灌の墓とされるものがあり、近くには道灌屋敷跡の碑、踏切を挟んで上杉家屋敷跡がある。道灌は主君・上杉定正に謀殺され、後にその家督は長尾景虎(上杉謙信)へと継承される。

浄光明寺・海蔵寺・薬王寺
 寿福寺踏切を渡ると浄光明寺があり、ここは足利尊氏が長く逗留したことで知られる。周辺には相馬家慰霊廟、大姫を祀る岩船地蔵堂があり、海蔵寺が建立した。近くの亀ヶ谷切通しは鎌倉七切通しの一つで、周辺には『河内』姓の家が多い。これは頼朝が寺社建立のため奈良・京から宮大工を呼び寄せ、出身地にちなみ『河内』の名を与えたという伝承による。薬王寺には家光の弟・忠長卿を偲ぶ碑があり、寺は真言宗から日蓮宗へ改宗した。

風致保存会と地域の記憶
 横須賀線ガードを抜けた先には大正期の建物である風致保存会があり、町内会の集まりが行われている。町内会長の河内氏も、宮大工の由来を語り、地域の歴史が今も生活の中に息づいていることを示している。

さいごに
 扇ガ谷には、源氏・上杉氏・太田道灌・徳川家ゆかりの史跡が密集し、鎌倉の歴史を凝縮したような場所である。語り尽くせぬ魅力を持つこの地について、今回はその一端を紹介した。またの機会にその他についても触れてみたい。

講演後記

 一昨年の春、今回ご紹介いただいた鎌倉・扇ガ谷を槙さんのご案内で散策したことがある。鎌倉駅や鶴岡八幡宮周辺の賑やかさとは打って変わって、行きかう人は多くなく、静かな歴史深い町並みであることを今回も強く感じた。槙さんは、まだまだ語り足りていなかったように思われるので、また次の機会に続きをお話しいただこう。

槙さんホームコンサートページへのリンク

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