令和7年(2025)11月2日(日)、『日本城郭史学会委員 大竹正芳 先生』をお迎えし、『玉縄城址研究における最新動向』についてご講演いただきました。なお、大竹先生は、11月8日(土)に実施した歴史散策会にもご同行くださり、現地を見ながら講演内容の一部を解説いただきました。
ポイント
● 玉縄城の地質と立地
6500年前の縄文海進により、現在の大船周辺は『古大船湾』と呼ばれる巨大な入り江になっていた。玉縄の山稜部は海に面した岬であったため、浸食により急峻な崖の形状となった。その後、海が引き陸地となった。玉縄城はそのような地質上に築かれている。
北側の関谷は相模台地の平坦地形で、城の周辺は三浦半島の隆起地形に位置し、台地との接点部に立地する。周辺の山居遺跡では縄文〜古墳時代の住居跡が確認されており、柄沢と城廻の境にある城廻配水池付近には河岸段丘とみられる崖があり、城壁として利用されていた。崖下の南北道は鎌倉街道であったと考えられる。
● 発掘成果と縄張図復元の意図
本丸は五角形で、西南部の土塁の下に袖曲輪が存在していたと推定される。柱穴からは宝篋印塔の反花座が上下逆に出土し、礎板に転用されていたことが判明。御厩曲輪西側では南北・東西に延びる堀と橋脚跡が発見された。
昭和38年の清泉女学院建設と都市開発により遺構の多くが失われたが、昭和29〜31年に赤星直忠氏による図面が作成され、平成以降のマンション建設に伴って緊急発掘が実施された。赤星図は土地台帳の公図に基づいており、地形との整合性に欠けるため、発掘成果を加味した都市計画図が新たに作成された。築城500年祭では簡易測量図も作成され、玉林美男氏や玉縄歴史の会による調査、未公開写真・航空写真ネガの入手により、遺構の再検討が進んだ。
● 巨大竪堀群と防御構造
昭和55年の発掘では、北東部で比高差30m・幅14〜22mの竪堀と堀切が確認された。自然の山ひだを人為的に削って形成されたと考えられ、航空写真でも本丸北西部に竪堀らしき構造が映っている。これらの構造は、玉縄城が禿山であったこと、竪堀が防御と排水の両面で重要な役割を果たしていたことを示している。
● 御厩曲輪の虎口と西側防御
『御厩曲輪』は本丸南側に位置し、二の丸に相当する。東は七曲坂を経て鎌倉方面へ、西は空堀と沢を挟んで城宿へ通じていた。航空写真では、大土塁の西端に凹凸が確認され、細い土塁が延びていた痕跡が見られる。これらは互い違いに配置された枡形虎口の構造を示唆しており、従来の理解を補完する発見である。
● 治水機能と竪堀の役割
玉縄城は山城でありながら水堀を備え、竪堀は雨水を山裾へ導く排水路としても機能していた。禿山化により保水力は低下していたが、沢や堀切を活用した排水設計がなされていたと考えられる。昭和51年には高台で水害が発生しており、地下水脈の処理も含めた治水設計の重要性がうかがえる。
● くいちがい曲輪と西の防御線
西の丸に相当する『くいちがい曲輪』は、堀底通路や土塁、掘割道を通じて複雑な導線を形成。道筋が食い違う構造から名称が由来したとされ、馬出曲輪として本丸西側の防御を担っていた。二重馬出の構造も推定され、現存する土塁や平場がその痕跡を伝えている。
● 徳川期の改修と縄張の変遷
玉縄城は五角形の本丸を中心に三方に馬出曲輪を配した『悌郭式城郭』で、聚楽第型の城郭に類似するが、折れを多用した形状は会津若松城に近い。天正18年以降、徳川家康の命で豊臣系の構造に改修されたと考えられ、水野忠守・本多正信・松平正次らが領主を務めた。発掘では堀切や竪堀の掘り直し、埋め戻しの痕跡が確認されており、改修の実態がうかがえる。
● 編年と築城思想の変遷
北条綱成の時代には諏訪壇等を曲輪とした山城形態であったと思われ、氏繁の時代に横堀が造成されたと推定される。氏勝期には最新技術が導入され、谷戸開発による武家屋敷群が形成された。荏柄要害や下田城、山中城との比較からも、玉縄城は中世山城と織豊系城郭の要素を併せ持つ独自の構造を有していたことがわかる。
● まとめと意義
昭和30年代以降、玉縄城は研究対象として顧みられることが少なかったが、玉縄城址まちづくり会議の活動により再評価が進展。埋もれていた資料が発掘され、城郭研究の進展と照らし合わせた検討が可能となった。玉縄城は単なる北条氏の城ではなく、徳川期の改修を含む多層的な歴史を持つ城郭であり、何代にもわたって築かれた複合的な構造を今に伝えている。
講演後記
今回の大竹先生のお話を通じて、これまで何気なく耳にしていた玉縄城の各所が、どのような位置づけで、どのような意図をもって築かれたのかを深く理解することができた。とりわけ、地形に刻まれた皴のように多数存在していた竪堀と堀切の存在、そして竪堀が防御と排水の両面で重要な役割を果たしていたという点は、非常に意外で印象的だった。
また、西側の防御が地形的に脆弱であったことから、清水曲輪の強化が図られていたという記録が残されており、今回の歴史散策がその理解を深める契機となったことを強調したい。
現在の玉縄城址からは、長年の研究によって導き出された往時の姿を想像することは不可能だが、北条流の築城術が施された、樹木のない禿山の玉縄城をこの目で見てみたかったという思いが募っていたのは、私だけではなく聴講者全員だったのではないだろうか。

