玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

令和7年(2025年)10月公開講座『中世と近世を生きた北条氏勝~その生涯と二つの七条袈裟・横被をめぐって~』のレポートを掲載

 令和7年(2025年)10月5日(日)、『千葉県佐倉市史編さん委員・文化財審議委員 外山信司 先生』と『皓月山 宝金剛寺 京極勇剛 御住職』をお迎えし、玉縄北条氏最後の玉縄城主・氏勝公の生涯と横浜市歴史博物館で開催された『開館30周年記念特別展・横浜の文化財~まもり伝える地域の記憶~Partl』にて展示された氏勝公寄進の袈裟について紹介いただきました。

ポイント

はじめに
 玉縄北条氏は、相模国の玉縄城(現在の鎌倉市JR大船駅近く)を拠点とした後北条氏の有力な一族である。第三代城主の綱成は今川氏の重臣・福島(くしま)正成の子で、北条氏綱の娘を室とし、北条一門に列せられた。綱成の子・氏繁も氏綱の子・氏康の娘を室として女系で北条家と結びつくという独特な立場にあった。
 最後の玉縄城主・氏勝は、小田原合戦に参戦した後、徳川家臣として近世大名の道を歩んだ。父・氏繁から与えられた『出陣次第』や、文化財に指定された宝金剛寺(千葉県佐倉市)に残る寄進資料は、今日までその存在を伝えている。

房総に侵攻した玉縄北条氏(安房里見氏との抗争)
 玉縄北条氏は関東進出の尖兵として活躍。綱成は川越城攻略で『黄八幡』の旗を掲げ、武神八幡を象徴として戦功を挙げた。鎌倉・鶴岡八幡宮を崇敬し、岩富町に八幡社を勧請するなど鎌倉との宗教的結びつきも強い。氏繁の書状には里見氏との抗争が記録され、江戸湾の水軍を管轄したことも玉縄北条氏の特徴である。さらに、享徳の乱で分立した武蔵千葉氏(旧千葉宗家)に氏勝の弟・直胤が養子入りし、房総との関りも深めた。

山中城での敗戦と独自の道
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの前噴戦である山中城合戦において、松田康長・間宮康俊と共に同城を守備した氏勝は、たった一日での落城を経験した。氏勝は小田原城に入らず玉縄城に籠城し、最終的には開城して豊臣・徳川軍の関東攻略を案内するという、小田原本家とは異なる独自の選択をした。

徳川家康に仕え岩富城主へ
 その後、氏勝は岩富領一万石(千葉県佐倉市)を得て、岩富城主となる。岩富城下にある八幡社には氏勝の植えた杉が残る。天正19年(1591年)頃、嫡子・氏明に家督を譲ったが、氏明没後に再び当主となった。房総で最初の大閤検地を実施し、『内田村検地帳』や支配の様子を示す『黒印状』が残っている。

豊臣政権との関係と徳川譜代化
 氏勝の妹は杉原長房の妻であり、杉原家は秀吉正室・高台院の実家で浅野家とも近縁だった。一方、氏勝の養子となった氏重は、信濃高遠城主・保科正直の四男として生まれ、氏勝の姪を妻に迎え、玉縄北条氏の正統性を担保。こうした婚姻関係は豊臣政権の中枢との接点を生み、徳川譜代大名化への道を開いた。関ヶ原の戦いを経て、玉縄北条氏は完全に徳川体制に組み込まれた。

氏勝の菩提寺・宝金剛寺
 宝金剛寺は佐倉市東部における真言宗豊山派の中心寺院で、佐倉市直弥に位置する。氏勝が寄進した2つの七条袈裟(牡丹蓮華唐草模様・亀甲梅椿模様)は、横浜の寶生寺との関係を示す資料でもあり、千葉県指定文化財となっている。氏勝は慶長16年(1611年)に没し、墓所は宝金剛寺にある。

おわりに
 保科正直の子・氏重(母は家康の異父妹・多却姫)が養子となり、玉縄北条氏ほ完全に徳川譜代大名化した。氏重は後に掛川藩主となったものの、嗣子なく断絶してしまったが、氏勝の甥・氏長は旗本として北条流軍学を伝えた。さらに大岡忠相の母は氏重の娘であり、王縄北条氏の血脈ほ江戸期の幕臣社会にも影響を残したことになる。

講演後記

 玉縄城開城の決意たるや、氏勝公の心中は我々には想像を絶するものだったと思う。その後の王縄北条氏がどのような系譜を迪ったのか、とても気になるところだったが、しっかりと歴史に刻まれていることが分かった(大岡越前の母が子孫であったとは・・・加藤剛さん演じる大岡忠相の母は加藤治子さんでした)
 講演に先立ち、横浜市博にて氏勝公奉納の七条袈裟を実際に拝観することができた。その体験を踏まえて臨んだ講演であったため、京極御住職のご説明を一層深く理解できたと感じている。
 このような貴重な機会を与えてくださった外山先生と京極御住職に対し、心から御礼申し上げたいと思う。来春の歴史散策では、是非とも岩富を訪れてみたい。

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