玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

令和7年(2025年)9月公開講座『実朝の首の行方~史実と虚構~』のレポートを掲載

 令和7年(2025年)9月7日(日)、『NPO法人 鎌倉ガイド協会 齋藤顯一 先生』をお迎えし、『実朝の首の行方~史実と虚構~』と題したご講演を行っていただきました。

ポイント

 源実朝暗殺事件と、その後で行方不明となった『実朝の首』をめぐる史実・伝承・虚構を整理し、その全体像を繋ぎ合わせながら講座は進んだ。

 まず『吾妻鏡』が描く実朝の最期に至る『前兆』が紹介され、実朝が右大臣拝賀の式典出立前に詠んだ『禁忌の和歌』、夢告、幻覚、官位への執着、王朝文化への傾倒、陳和卿との出会いと渡宋計画など、実朝の特異な気質と不吉な兆しが繰り返され、事件の伏線となっていた。

 暗殺当日も、大江広元の涙、実朝が髪を近習に与える、剣が折れる、義時の幻覚など、異常な出来事が続き、ついに鶴岡八幡宮で公暁(実朝の甥)による暗殺が起こる。『吾妻鏡』は、実朝の不用意な言動が招いた結果としている。

 しかし、問題はその後であり、『吾妻鏡』は「首のない遺体を勝長寿院の側に葬った」と記すのみで、首の行方には触れない。ここから史料は多様化し、『愚管抄』では雪中から首が発見されたとし、『承久記』では犬に食われた説、公暁が逃亡した説などが語られる。

 一方、神奈川県秦野市には『実朝公御首塚』があり、実朝の首が秦野に運ばれたとする伝承が存在する。首を持ち運んだ者として、七騎の侍説、長尾定景の郎従・武常晴の説がある。武常晴は三浦一族の若武者で、彼が首を波多野忠綱のもとへ届けたとされ、忠綱は相模の有力武士で、その地に実朝の首を埋葬したと伝わる。御首塚は当初木造五輪塔で、後に石造五輪塔となり、金剛寺が建立された。金剛寺は後に江戸へ移転し、現在は中野区に所在する。

 さらに、実朝の首は秦野から高野山へ運ばれ、最終的には宋の医王山に納められたという壮大な伝承もある。実朝が生前に夢見た『渡宋』を、頭骨が果たしたという物語である。葛山景倫や覚心らが関わり、頭骨の半分が観音像の胎内に納められたとされる。

 齋藤先生は結論として、「史実と虚構が複雑に絡み合う中、武常晴の存在が鍵を握るとされるが、彼は事件の2年後に20歳で早世しており、首の行方を守り続けたとは考えにくい」とし、最も史実に近いのは『愚管抄』の「雪中から首を発見し勝長寿院で火葬した」という説だろうとしていた。

講演後記

 『実朝の首の行方』について、史実と虚構が巧みに織り交ぜられた今回のお話は、まるで一篇の歴史ミステリーを読むようで、いつもの講演とはまた違うスリリングな時間を味わうことができた。齋藤先生、ご講演いただきまして誠にありがとうございました。
 さて、講演の最後に、齋藤先生が寄稿された『実朝の歌碑』に関する新聞のコラム記事を紹介いただいた。その歌碑は鎌倉海浜公園(坂ノ下)にあり、小倉百人一首(第93番)の「世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも」が刻まれているとのこと。是非とも見に行くべきだろう。

落ち着いた口調で実朝の首の行方を語る齋藤先生
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次