令和7年(2025年)7月6日(日)、『学習院女子大学非常勤講師 加藤 厚子 先生』をお招きし、『湘南地域と映画のかかわり』について、ご講演いただきました。
ポイント
初期日本映画と湘南地域
● 1900年頃、東京・京都周辺で日本人による映画製作開始
・風光明媚な観光地であり、東京から交通の便がよい湘南地域がロケーション撮影に使用。
・『己が罪』(吉沢商店 1908年)で、片瀬海岸での日本初のロケーション撮影実施。
● 1920~30年代前半、映画事業の企業化が進み、製作・配給・興行を社内で行う体制が整備
・日本活動写真株式会社(日活 1912年設立)、1913年に日活向島撮影所設立。
・松竹キネマ(1920年設立)、1920年6月に松竹キネマ蒲田撮影所設立。
松竹大船撮影所の設立
● 蒲田撮影所からの移転検討
・満州事変以降の軍需工場増加で騒音が悪化、宅地化が進み生活騒音も問題化。
・トーキー化による経営圧迫(設備投資増、弁士・楽士ストライキの多発、製作本数増加に伴うコスト増、傘下の新興キネマへの援助など)
● 新撮影所の候補地選定
・埼玉県草加付近、小田急沿線の林間都市、神奈川県平塚などを検討したが、不適当と判断。
・自動車で1時間以内の範囲に、山・川・海・都会があり、交通が便利な立地と、横浜・箱根でのロケが可能で、東海道線・横須賀線が利用できるという条件から、大船が候補となる。
● 大船撮影所開設
・「松竹が来るなら町有地5千坪を提供する」という地元有志の申し出を菅原通濟が城戸四郎に伝達。通濟は大船~江ノ島間の自動車専用道路を建設(1926年認可)、鎌倉山の開発を手がける。
・1934年6月、松竹映画都市株式会社設立。7万坪の土地を売却して撮影所建築費に充てる計画。撮影所周辺の売却先は工場(重工業不可)に限定。
・1936年1月4日~14日、全所員引っ越し。同15日に蒲田撮影所閉所式。同16日に大船撮影所開所式。
● 大船撮影所の特徴
・敷地3万坪(蒲田撮影所の5倍)、建坪4千5百坪、建築費120万円。
・平面式を採用。不足した場合、横に拡張できるようステージを横一列に配置。
・ステージ以外の棟も撮影に利用できるよう、それぞれ異なる外観で設計。
● 湘南地域への映画関係者転入
・撮影所移転と同時に転居した関係者は少なかった。「昼間はスタジオに居るから良いが、夜になり自分の時間を費やそうとしても、付近には喫茶店1つない。映画館も横浜まで出掛けないと駄目という場所」(『オール松竹』1936年5月号)
・当時、湘南地域に在住していた有名な映画人(上原謙、佐分利信、田中絹代など)の住居が映画雑誌グラビアで取り上げられ、湘南地域が全国に知られるようになる。
・その後、大船田園都市株式会社に引き続き、松竹が大船周辺の土地開発を行う。撮影所に付帯する都市計画(従業員の居住を含める形での都市開発)を進めることで、映画雑誌などマス・メディアを通じて『湘南地域=スターの住む町』のイメージが普及し、徐々に湘南地域への転入(特に、俳優以外のスタッフ)が増えた。
小津安二郎と茅ヶ崎館
● 戦前の小津安二郎と茅ヶ崎館
・戦時下では長編劇映画の年間製作本数が制限され、映画製作は松竹・東宝・大映の3社体制に。松竹は戦争映画や時代劇の製作が不得手で、1943年頃から高まった時代劇人気に対応しきれず。
・大船撮影所は戦争末期は軍に一部占拠され、本館の半分が海軍管理部隊に、第5・6ステージは軍需品倉庫となり、一般人の立ち入りが禁止された。
・こうした困難な製作環境の中でも、安定した収益を挙げた監督のひとりが小津安二郎だった。戦中・戦後に茅ヶ崎館を定宿にしたことで、茅ヶ崎の地名が全国に広まった。
● 戦後における茅ヶ崎館での製作
・戦後、日本映画市場に新規企業が参入(新東宝・東映・日活)し、会社間競争が再び活発化。
・野田高梧とのコンビを結成し、『風の中の牝鶏』(1948年)、『晩春』(1949年)、『宗方姉妹』(1950年)、『麥秋』(1951年)、『お茶漬の味』(1952年)、『東京物語』(1953年)、『早春』(1956年)まで、茅ヶ崎館を定宿として脚本を執筆。
・1952年1月の火災で監督室と私物が焼失し、小津は北鎌倉に自宅を構えるが、茅ヶ崎館に長期滞在。「1人また茅ヶ崎館に帰る」という表現を使う。
大船撮影所の終焉
● 日本映画黄金期の終わり
・1960年代半ば以降、日本映画の観客動員数が急激に低下。1970 年代には斜陽期に入り長く低迷。
・産業構造の変化により、撮影所が映画産業の中核から外れる(製作の外部委託、製作工程の細分化など)
・撮影所システム(社員=スタッフを育成するシステム)の崩壊で、集住の必要性が減少。
● 1960年代以降の大船撮影所の変遷
・1965年 松竹京都撮影所が閉鎖され、一部社員が大船に異動。
・1977年 大船撮影所を分離、松竹映像株式会社設立。
・1995年 鎌倉シネマワールドをオープンするが、1998年には閉鎖。
・2000年 大船撮影所閉鎖、敷地を鎌倉女子大学に売却。
劇映画にみる湘南地域イメージの変遷
● 戦前~1950年代前半:景勝地・保養地・田園都市
湘南は、理想的な生活の場として描かれ、茅ヶ崎や片瀬、鵠沼などがロケ地に。恋愛悲劇の背景として海や自然が使われ、洗練された文化的な場所としてのイメージが強調された。
● 1950年代後半~1960年代:若者の流行発信地、大衆的なレジャースポット
『太陽族映画』や『若大将シリーズ』により、湘南は若者文化の象徴に。加山雄三の出身地である茅ヶ崎が影響し、『湘南=海=若者』という図式が定着。ファッションやライフスタイルの憧れの地として描かれた。
また、藤沢市が江の島海岸を『東洋のマイアミ』としてPR。映画では観光地としての混雑や活気が描かれ、旅行の目的が『保養』から『レジャー』へと変化。余暇の過ごし方の変化を反映している。
● 1970年代後半~1990年代:サーフィンと若者文化
サーフィンブームにより『湘南ボーイ』などの言葉が登場。映画では湘南の現実とメディアが描くイメージの乖離がテーマに。『稲村ジェーン』や『波の数だけ抱きしめて』では、過去の湘南への懐古的な視点が見られた。
● 2000年代以降:レトロブームと日常の舞台
『ピンポン』や『ハチミツとクローバー』などでは、昭和の風景を残す場所として湘南が登場。若者にとっては、古くて新しい魅力を持つ場所として評価され、懐古的ではない日常の舞台として描かれている。
● 近年の傾向
近年は、自然に恵まれた日常生活の場として、学園ドラマや恋愛映画の舞台に。流行や観光地としての描写は減り、穏やかな生活空間としてのイメージが強まっている。
まとめ
● 日本映画と湘南地域の関係
日本映画の草創期から、湘南地域は東京近郊の景勝地としてロケ地に選ばれてきた。特に松竹は映画産業の拡張に伴い、大船に大規模な撮影所を開設し、地域開発にも関与。映画関係者の集住や定宿制度により、湘南は『映画人のいる地域』としてのイメージが定着した。
● 映画による地域イメージの形成
映画は湘南地域の実態を反映しつつ、流行や文化の影響を受けてイメージを再生産する。時には、実態と乖離した描写も見られ、メディアによるイメージの拡散が地域認識に影響を与えている。
● 湘南地域における映画の位置づけ
湘南では、映画産業というコンテンツ産業が地域開発に関与する珍しい事例が見られる。田園都市開発と映画というベンチャー産業が結びつき、芸術・文化がその接点となっている。ロケ地としての役割だけでなく、作品を通じて地域イメージが広がり、湘南の歴史を考察するうえで映画は重要な要素となっている。
講演後記
江ノ電が発着する藤沢駅の湘南GATE 6Fに、藤沢市南市民図書館がある。ここで偶々手にした『藤沢市史研究』に、加藤 厚子 先生の論文が掲載されていた。『松竹大船撮影所と湘南の風景』、それがタイトルだった。帰宅して直ぐにインターネットで検索し、先生へのアプローチルートを見つけ、当会での講演を打診したところ、翌日には「了解した」旨のメールを返信いただき、大喜びしたことを思い出す。
当会々員の多くは鎌倉近辺(もちろん、大船・玉縄近辺は多い)に居住し、且つ年輩の方々が多いので、松竹大船撮影所には思い入れが深いと想像でき、玉縄歴史の会ならではの講演テーマになると実感した。
先生の講演では、古い無声映画の映像や、当時の大船の風景が掲載された戦前の雑誌記事、はたまた上原謙さんの通勤風景(茅ヶ崎の自宅から大船撮影所まで)など、多々工夫を凝らしてくださり、また湘南と映画のかかわりを分かりやすくご講演していただいた。
これからも湘南映画の一番の語り手として、ご活躍していただきたく思います。ご講演賜り、誠にありがとうございました。