玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

令和7年(2025年)3月公開講座『西相模・伊豆地域の海から戦国大名北条氏へもたらされたもの』のレポートを掲載

 令和7年(2025年)3月2日(日)、『神奈川県立歴史博物館 学芸部の梯 弘人 先生』にお越しいただき、『西相模・伊豆地域の海から戦国大名北条氏へもたらされたもの』についてご講演いただきました。これは、昨年11月に講演いただいた『戦国大名北条氏にとっての西相模・伊豆地域の重要性』に続く第2弾となります。

ポイント

対象地域の特色
 相模川以西の相模国および伊豆国は『北条氏の直轄支配地域』であり、相模湾と駿河湾が目の前に広がる『海産物の産地かつ物流・交流の拠点』だった。

宴会に用いられる海産物
 戦国時代の武士にとって、海産物は重要な資源であり、宴会や儀式に用いられた。北条氏の饗応膳でも、鯛、鮭、鮒、蒲鉾、海鼠腸(このわた)、干鯛(フクメ鯛)などが使われた記録がある。

<古文書の記録>
・小田原天文記(1534年):北条氏綱が室町幕府の使者をもてなす際に地引網で獲れた海産物を提供。
・鶴岡八幡宮社参記(1558年):古河公方・足利義氏の訪問時に『七五三の膳』という形式で宴が催された。

海産物の確保と領主の権利
 伊東家祐書状(江梨鈴木家文書:北条氏家臣の伊東家祐が鈴木次郎三郎に宛てた書状)では、瀬之崎で獲れた鰤を年貢として取る権利を巡り、北条氏の命令と地元領主の権利が対立した。この書状からは、海沿いに所領を持つ武士はその沿岸での漁獲物を年貢として取り立てる権利を持つものの、虎の印判状による北条氏の命令は地域の武士の権利を上回ることが分かる。

戦勝の宴と海産物
 北条家朱印状(藤曲家文書:永禄4年(1561年))では、北条氏が小八幡村に鯛3枚を代官の南条氏・大草氏へ渡すことを命じた。小八幡村は高麗越前守(小田原衆)の所領であるが、虎の印判状での命令が優先したことが分かる。南条氏・大草氏ともに北条氏重臣であり、中でも大草康盛は武家故実の専門家であることから、長尾景虎(上杉謙信)の小田原城攻撃を撃退した祝宴の儀式のため、鯛を調達したのではないか。

海上輸送で贈られたもの
 北条氏規書状は、氏規が徳川氏関係者に宛てたものと思われ、手紙と茶の湯に関する箱を贈られたことへの礼状。この書状が出された時期(天正7年(1579年)~10年(1582年)?)は、武田氏との同盟が崩壊し、駿河国は武田氏に支配されていた、書状を携えた使者・朝比奈泰勝は船で往来した可能性。
 書状の内容は「茶の湯というものはよく分からないけど、家康殿からもらった抹茶はおいしく飲んでいます」といったようなもの。北条氏規は幼少期今川氏の許で人質として生活し、その時期に徳川家康と親交を結んでいたことで、北条氏の中で徳川氏・豊臣氏との外交交渉を担当した。


海上交通に関する法度
・北条家法度書(江梨鈴木家文書:元亀4年(1573年))では、『出航する船への同乗を原則禁止』『他国船が来航した際の取り扱い』『商売と称した敵地への渡航禁止』が明記された。
・北条家船手形朱印状(江梨鈴木家文書:天正2年(1574年))では、武田氏印判の見本を示し、『手判を持つ船は特別扱いを許可(検査確認の省略)』を明示した。

講演後記

 戦国大名の北条氏が西相模・伊豆地域の海産物をどのように確保し、政治・経済・儀式に活用したか、古文書を元に分かりやすく解説いただいた。特に、海産物の調達、領主の権利、戦勝の宴、海上輸送、海上交通の法度など、その切り口が梯先生ならではだと思った。
 北条氏の海洋政策と戦国時代の食文化・経済活動などを理解する貴重な機会をご提供くださった梯先生に、心から感謝申し上げたいと思う。


丁寧な語り口が特徴の梯先生
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